氏 名 さいとう まさえ
齊藤 正恵
本籍(国籍) 静岡県
学位の種類 博士 (農学) 学位記番号 連研 第469号
学位授与年月日 平成21年3月23日 学位授与の要件 学位規則第5条第1項該当 課程博士
研究科及び専攻 連合農学研究科 生物環境科学専攻
学位論文題目 新たな遺伝子分析手法を用いたツキノワグマの農作物加害個体の特定方法に関する研究
-食痕からのDNA採取と野生動物管理への応用-
( Studies on the identification technique of nuisance black bears using extracted DNA from damaged agricultural crops )
論文の内容の要旨

 ツキノワグマ( Ursus thibetanus )は国内において6つの地域個体群で絶滅が危惧されている。 このように地域個体群の存続が求められる一方で、ツキノワグマによる農業被害が発生して問題となっている。 農業被害が発生すると、その対処としてワナによる有害捕獲が実施されている。 これまで数多くの有害捕獲が繰り返されているにもかかわらず、ツキノワグマによる農業被害は毎年発生している。 ワナに捕獲された個体を機械的に捕殺しても被害水準は減少していないことが指摘されており、 ツキノワグマの管理を行なう際には個体数管理だけではなく、加害個体を特定したうえの管理(個体管理)が必要であると考えられている。 しかしこれまで加害個体を特定できる有効な手法がなかった。 そこで本研究では、被害農地に残されたツキノワグマによる農作物の食痕試料に着目して、 これを材料とした実用的な遺伝子分析手法を開発し、加害個体の特定を試みた。 そして、本手法によって得られた加害個体の知見から問題となっている現行の有害捕獲に対しての考察を行なった。

 第2章では、加害個体の特定手法の開発を目的として、食痕試料からの遺伝子分析手法に関する基礎的検討を行った。 第一に個体識別用のマイクロサテライト座位および性判別用のアメロゲニン遺伝子を効率よく増幅することを目的として、 最適なテンプレートDNA量を決定した。 第二に、食痕試料を用いた遺伝子分析の信頼性を検証するために、最適テンプレートDNA量における分析エラー率を調査した。 第三に野外に応用する際、食痕に付着したDNAは時間とともに分解すると考えられるため、 食痕試料を試験的に放置して何日以内に採材すべきか検討した。 これらの検討には、以下の方法で回収したDNA抽出液を用いた。 すなわち、動物園の飼育個体から採取したリンゴ食痕の表面を綿棒で拭い、口腔内剥離細胞を回収した。 DNAの抽出は常法であるフェノール・クロロフォルム法によって行い、回収したDNAの濃度を分光光度計により測定した。 第一に最適なテンプレート量を検討するために、抽出液を段階希釈してマイクロサテライト座位およびアメロゲニン遺伝子の増幅を行った。 その結果、最適なテンプレートDNA量は75ng及び100ngであることがわかった。 第二にこの最適テンプレートDNA量における分析エラーの発生率を調査した。 その結果、発生したエラーは全てPCR増幅産物が得られない(nondetection of alleles)ものであり、エラーの発生率は2.8%であった。 第三に野外における採材条件を検討するために、食痕を恒温器で1、3、5日間保存した後、遺伝子分析を行った。 分析成功率は、時間の経過とともに減衰する傾向がみられ、経過日数が1日で半減していた。 このことから、食痕試料はツキノワグマが摂食してから1日以内の新鮮な状態で採材する必要があることが示唆された。 以上より、食痕試料からの遺伝子分析手法として、食害後1日以内の新鮮な試料を採材し、 最適テンプレートDNA量を添加して増幅を行い、 この濃度でPCR増幅産物が検出されない試料は廃棄することで効率よく分析が行えるものと考えられた。

 第3章では、実用的な遺伝子分析手法を確立することを目的として、開発された手法を野外に応用した。 まずツキノワグマによる被害農地から6種類の被害農作物を採材して第2章の手法を用いて遺伝子分析を行ったところ、 回収したDNAは着色がみられその分析成功率は63%であった。 PCR阻害物質の存在が考えられたため、CTAB処理を行ったところ分析成功率は92%となり、なかでもコーン試料で大きく改善された。 これは食痕を綿棒で拭う際に多糖類を含めた植物由来の成分が混入し、 CTAB処理を行うことでPCR反応を阻害する多糖類が除去されたものと考えられた。 次に大規模なデントコーン圃場を対象に食痕試料を採材して遺伝子分析を行なった。 個体識別の成功率は30.3%と低かったものの、21頭の加害個体を識別することができた。 ここでは分析エラーを回避するために、遺伝子型が完全に一致した試料の組み合わせと、 1座位のみ及び2座位のみ遺伝子型が異なった試料の組み合わせを検出して、これらの試料について2回目の増幅を行い、 2回の分析結果が一致した試料のみを成功とみなした。 これにより廃棄する試料数が多くなるものの、野外においても正確に分析を行うための手法が確立された。 最後に、岩手県内で最も有害捕獲数が多い遠野市東部の農村地帯においてツキノワグマによる被害農作物を採材して加害個体を特定した。 その分析成功率は56.1%であり、3年間で計42頭の加害個体の遺伝子型が特定された。 この地域における有害捕獲数はこの3年間で17頭(オス11,メス6)であったことから、 有害捕獲数を上回る個体が農業被害を起こしていることが明らかとなった。 また、識別された42頭のうちオス個体は30頭であり、有害捕獲個体の性比(約2:1)よりもさらにオス個体に偏っていた。 このことから農業被害を起こしていないメス個体が誤って捕殺されている可能性が示唆された。 このように加害個体を特定したことで、農業被害を起こしているツキノワグマに関する新しい知見が得られた。

 以上、本論文はツキノワグマによる農作物加害個体を特定するために、 飼育下及び野生のツキノワグマを供試して食痕試料からの遺伝子分析手法を開発し、 また野生ツキノワグマを対象とした試験的な調査では本手法の野生動物管理への応用可能性を示す結果を得ることができた。