氏 名 いぬま みちこ
井沼 道子
本籍(国籍) 青森県
学位の種類 博士 (農学) 学位記番号 連研 第449号
学位授与年月日 平成21年3月23日 学位授与の要件 学位規則第5条第1項該当 課程博士
研究科及び専攻 連合農学研究科 生物資源科学専攻
学位論文題目 ヒメネズミ( Apodemus argenteus )のC-ヘテロクロマチンにおけるQM蛍光遅延の機構解明に関する研究
( Studies on the mechanism of the delayed quinacrine mustard fluorescence in the C-heterochromatin of the small Japanese field mouse, Apodemus argenteus )
論文の内容の要旨

 キナクリンマスタード(QM)は染色体分染法に広く使用される蛍光色素である。 QMを含む蛍光色素は全般に、蛍光顕微鏡下で励起光の照射開始直後に最も強い蛍光を放つが、 時間の経過に伴い蛍光強度が減衰するという蛍光動態を普遍的に示す。 ところが、ネズミ目ネズミ科アカネズミ属に属するヒメネズミの染色体C-ヘテロクロマチン(C-het)領域は、 QM染色した際、"蛍光遅延"と呼ばれる、他の生物ではまったく知られていない特異な蛍光動態を示す。 この領域はQMで染色し波長435 nmの励起光(blue light: BL)を照射すると、照射を開始した直後は弱い蛍光を放つが、 その後徐々に蛍光強度が増大し、ピークに達した後減衰してゆく。 本種のC-hetにはこの現象の要因となる未知の構造又は構成成分が存在すると推測され、QM蛍光遅延の機構解明は、 未知の部分の多いC-hetの構造・機能に関し新たな知見をもたらす可能性を持つ。

 本研究では、QM染色・BL照射により染色体DNAに生ずる変化を調査するため、 一本鎖DNAと二本鎖DNAを染め分ける蛍光色素アクリジンオレンジ(AO)及び染色体DNAの一本鎖の切断(nick)部位を 標識する手法 in situ nick translation法を用いた。 また、メチレンブルー(MB)を用いた光酸化処理によるQM蛍光動態の変化と、染色体DNAのnickの有無との関連性を分析した。

 AO染色の結果、ヒメネズミの染色体はBL照射なしでは染色体DNAが二本鎖であるが、 QM染色・BL照射後はDNAが一本鎖に変性していること、C-het領域はユークロマチン領域に比べその度合がより大きいことが示された。 また in situ nick translation法による分析 の結果、ヒメネズミのC-het領域はBL照射なしではnickがほとんど無いのに対し、 QM染色・BL照射により多量のnickが生じることが示された。 これはBL照射によるDNAのnick生成が引き金となって二本鎖DNAの部分的な変性が起きたものと推測される。 比較のため用いた他の哺乳類3種(ハントウアカネズミ、ハタネズミ、ヒミズ)では、 C-het領域における顕著なnickの増加は見られなかった。 よってヒメネズミのC-hetは、ユークロマチンと比較して、また他3種のC-hetと比較しても、 QM染色及びBL照射により引き起こされるDNAの構造変化をより起こし易いことが確認された。

 またMB光酸化処理を施すことにより、ヒメネズミのC-het領域は、BL照射開始直後に最も蛍光強度が強く、 時間の経過に伴い蛍光が弱まるという"一般的な"蛍光動態へと変化した。 In situ nick translation法による分析の結果、同領域ではMB光酸化によりnickが大幅に増加しており、 BL照射時と同様、nick生成がより起こり易いことが判明した。

 これらのことから、ヒメネズミのC-het領域はユークロマチン領域及び他種のC-het領域に比べ、 光酸化による構造変化に対して感受性が高いと考えられ、顕微鏡下のBL照射により引き起こされるnick生成がQM蛍光遅延の一因となると考えられる。

 一方、過去においてこの現象へのタンパク質成分の関与も示唆されており、 その検証としてタンパク質分解酵素トリプシンによるヒメネズミ染色体の処理を行い、QM蛍光動態の変化を調査した。 トリプシン処理後のC-het領域はBL照射開始直後に弱い蛍光を放ち、蛍光強度が強まることなく減衰するという特異な蛍光動態を示し、 その反応はトリプシン濃度依存的であった。 よって、トリプシンにより分解されたヒメネズミのクロマチンタンパク質の中にQM蛍光遅延に関わる成分があることが示唆される。

 さらにヒメネズミの核タンパク質に特有の成分が存在するか探るため、 核タンパク質抽出物の電気泳動による他のネズミ目の種(アカネズミ、マウス)との比較を試みた。 SDS-ポリアクリルアミドゲル電気泳動(SDS-PAGE)の結果、明らかにヒメネズミに特有であるバンドは確認できなかったが、 種間で移動度の異なるバンドがいくつか見られたため、それらを質量分析(Nano LC-MS/MS)し、タンパク質組成に差があるか探った。 しかし結果的にヒメネズミに特有な成分は検出されず、3種間での明確な差は見られなかった。

 今後タンパク質分析をさらに進めるためには、分裂期の細胞より染色体のみを単離するなどにより、 サンプルの精製度を高める必要性があると思われる。 また2次元電気泳動なども利用し、より高い分解能により種間の差異を検出することが望ましいと考えられる。