氏 名 しまだ てつお
嶋田 哲郎
本籍(国籍) 千葉県
学位の種類 博士 (農学) 学位記番号 連論 第113号
学位授与年月日 平成18年9月29日 学位授与の要件 学位規則第5条第2項該当 論文博士
研究科及び専攻 連合農学研究科
学位論文題目 日本の水田生態系におけるマガン Anser albifrons の越冬戦略とその保全生態学的研究
( Wintering strategy and conservation of Greater White-fronted Goose Anser albifrons in rice agriculture and ecosystem in Japan )
論文の内容の要旨

 マガン Anser albifrons は近年個体数が著しく増加し,国内飛来数の80%以上, 東アジア個体群の50%以上が伊豆沼・内沼周辺の宮城県北部で越冬する. また,ラムサール条約の登録湿地である伊豆沼・内沼は、国境を越えて国際的な保全が求められる重要な地域である. しかし,急増するマガンによって生物多様性の低下や農作物への相当な被害などが懸念されるため,越冬期間中の個体数の適正な管理が要求されている. 本研究では,最初にマガンの1971年以降の個体数増加現象を解明するため,採食戦略と対捕食者戦略について、行動生態学的視点で取り組み, 次に保全生態学および農学的視点から個体数の適正管理へ向けた解析を行なった.

 第1章のガン類生態の概要に続き,第2章のマガンの基礎生態の記載では,朝夕の移動とその経路,採食場所の空間分布,日中の行動, 標識個体の出現状況,食物内容を明らかにした. 第3章の採食戦略ではエネルギー獲得量の増加という視点から,日中行動に基づく(behavioral-based)モデルの考え方を適用して、 水田と隣接する畦というマガンの採食場所選択に影響を及ぼす要因を明らかにした. マガンは水田と畦でのエネルギー獲得量の季節変化に対応した採食場所の選択を行なった.

 第4章の対捕食者戦略では、警戒コストの軽減という視点から,群れ内の個体の警戒性の違いを明らかにした上で,親の警戒性に注目して, 親にとっての最適群れサイズを議論し,群れの警戒性の機構を明らかにした. 群れ全体の警戒率は群れ大きさの増加とともに低下した. 警戒ははじにいる家族の親が行ない,親の数は500羽前後の群れ大きさの時に最も多かった. その群れの大きさは,警戒コストと採食効率の相互関係,捕食者に対する見通しの確保という関係の中で, 親が利益を最大にできる最適群れの大きさであると考えられた.

 第5,6章の国内分布の変遷とその要因においては,水田という人為的影響の強い環境へのマガンの適応とその要因を歴史的視点から明らかにした. マガンが天然記念物に指定された1971年以前は,狩猟圧,人口増加,都市化にともなう生息地の改変と消失によって, マガンの個体数は減少し,分布域は漸次北日本へと移行した,1971年以降は,非繁殖鳥の増加にともなう個体数の増加, 宮城県北部への群れの集中,1990年代前半までは中継地であった秋田県における1995年以降の個体数増加,という3つの変化が認められた. マガンの個体数増加の要因は狩猟禁止になったこと,圃場整備率の増加によって落ち籾が多く落ちるコンバインの数が増加し, バインダーの数が減少したことにより,食物資源量が増加したためと考えられた. 秋田県の個体数増加は,宮城県の個体数増加と相関が認められず,宮城県の個体数増加と関連しない密度非依存的な増加と考えられた.

 第7章の餌食物と糞の窒素分析に基づく食性解析では,マガンは落ち籾のほかにもノミノフスマ,ナガハグサ,シロツメクサ, 大豆種子などを採食することが明らかとなった. その結果,食物の窒素含量は、落ち籾の窒素含量より高く,0.93~4.71%の範囲をとり,それに対応して糞では1.13~4.28%であった. この数値は、北極圏の繁殖地における既往の研究成果の数値と近似していた. 地球規模で長距離の渡りを行ない,一見広域な活動範囲をもつと思われるマガンでも, 高い窒素含量を提供する特定の採食地を活動の場として選択していると推定された. また,マガンの採食行動を通じて土壌表面における窒素の部分的な濃集が生じていると考えられた. また,糞のC/N比は 7~26.5と,鶏糞と同等な施肥効果をもつと考えられた.

 マガンの水田生態系への適応を,水田農業への適応と水田農業以外の環境への適応,の2つの側面から検討した. 水田農業への適応についてみると,採食場所が水田と畦という2次元の空間であることと, 食物資源量は水田農業という人為操作によって制限されるということが特徴的であった. 一方で,水田農業以外の環境条件は大規模スケールでマガンの分布に影響した. マガンは2,500年にわたる水田生活の中で,狩猟圧や生息地の改変や消失,気象条件などによる制約を受けつつも,水田の空間構造に適応し, エネルギー獲得量を増加する戦略をとってきた. そして,近年の農業近代化にともなう水田農業の変化によって食物資源量が増加したことが, マガンの個体数増加に大きく貢献したと考えられた.

 マガンの保全管理を検討する上で,第一義的に重要なことは,餌植物と糞の化学分析を通して,越冬地,中継地, 繁殖地という移動経路における生息地全体を俯瞰して考察すること,第二義的には,越冬地である宮城県のマガンを早急に分散することと考えられた. 農業近代化にともなう圃場整備事業によって,マガンの個体数の増加傾向はしばらく継続すると考えられる. 一方で,小麦食害など農作物被害が生じている地域もあり, 適正な個体数管理へ向けて全国レベルでマガンの保全管理を考察する時期にきていると結論した.